2012.09.26 : 平成24年第3回定例会
「火災対策こそが命を守る」

◯副議長(ともとし春久君) 六十七番早坂義弘君。
   〔六十七番早坂義弘君登壇〕
六十七番(早坂義弘君) 

 防災を考える上で最も重視されるべきは、命を守ることにあると私は考えます。現在、防災対策として論じられているものには、帰宅困難者や食料備蓄、仮設住宅などいろいろあります。それらは重要な論点ではありますが、あくまで生き残った後の話です。防災対策は多岐にわたります。それゆえに、その対策は、命を守るためのものなのか、それとも生き残った後のものなのか、そのどちらなのかをきちんと意識した上で論じるべきです。
 本日、私は、首都直下地震からいかにして命を守るかに絞って質問をいたします。
 結論から申し上げると、首都直下地震では、火災対策こそが命を守るというのが私の主張です。
 さて、東京都が、本年四月に発表した首都直下地震の被害想定で、私が何よりも恐ろしく感じたのは火災の発生です。冬の十八時、風速毎秒八メートルの東京湾北部地震の場合、品川区では、区内すべての建物のうち、何と三〇%が焼失するとされています。以下、数字が多い方から順に、大田区二五%、目黒区、杉並区、墨田区がそれぞれ二〇%です。東京都全体の死者九千六百人のうち、焼死と建物倒壊による圧死、窒息死がほぼ半分ずつとなっているところが、四百ページにわたるこの被害想定のポイントだろうと思います。
 ここで、過去の大震災による犠牲者の死亡原因を見ると、さきの東日本大震災では九〇%が溺死、阪神・淡路大震災では八〇%が建物倒壊による圧死、窒息死、関東大震災では九〇%が焼死でした。この数字を考えれば、首都直下地震に備える今、私たちが学ぶべき教訓は、大正十二年関東大震災にあります。
 そこで、関東大震災がどのようなものであったか、簡単に振り返ってみたいと思います。
 一九二三年九月一日午前十一時五十八分、神奈川県相模湾沖を震源としたマグニチュード七・九の大地震が発生、死者十万五千人という甚大な被害が発生をいたしました。地震発生から四十二時間もまちは燃え続け、今の山手線の内側に相当する東京市の半分が焼失しました。現在、江戸東京博物館があるところは、当時本所区と呼ばれており、火災が迫ってきたこの地域の住民は、率先して被服廠跡に避難しました。被服廠とは、軍服の製造工場のことですが、地震の三年前、赤羽に移転し、ここは樹木もほとんどない二万坪の空き地となっており、絶好の避難場所だと思われていたのです。
 しかし、皆さんご存じのとおり、この広大な空き地に避難した人の九五%、実に三万八千人がこの場所で焼死をしたのです。
 ここで一つ大きな疑問が生じます。私たちは通常、火災から避難するには、広大な空き地に逃げます。しかし、東京ドームの一・五倍もの広さを持つ空き地であったにもかかわらず、ここに避難した人の九五%が焼死したということは、空き地への避難では、火災から命を守れないのか、そういう疑問です。
 当時の状況を詳しく調べると、被服廠跡での惨劇は、午後四時から五時までの一時間に発生しています。ここに持ってまいりましたが、吉村昭のノンフィクション「関東大震災」には当時の様子が生々しく描かれています。また、北原糸子編写真集「関東大震災」には、焼死したご遺体がむき出しで山積みにされている写真も載っています。どちらも余りに残酷過ぎて、今ここで引用することも、パネルとしてごらんいただくことも、とてもできません。ですが、先ほどの疑問に対する答えが、この本と写真集に隠されています。
 それは、避難者が携えてきた荷物です。地震の発生から火災による避難まで数時間という猶予があったこともあり、住民は、たくさんの荷物をこの被服廠跡に持ち込みました。中には、大八車で持ち込んだ人もおり、一坪に二人、二万坪に四万人という避難者に加え、それぞれが運んできた膨大な荷物で敷地はあふれ返りました。そこに火災が延焼したのです。
 翻って今日、火災からの避難の際、持ち込む荷物を極力減らせという指導がなされてはおりません。
 さらに、木造住宅の火災燃焼温度は、三メートル離れたところでも八百四十度になるといわれています。延焼火災が発生した木造住宅密集地域の中がどういう状態なのかを私たちは知っておく必要があります。
 東日本大震災は、千年に一度の災害でしたが、関東大震災は、わずか九十年前の出来事です。私たちは、今こそ関東大震災のさまざまな教訓に学ぶべきであります。
 そこで知事に、首都直下地震対策は、火災に重点を置くべきだという私の考えに対するご見解を伺います。
 地震に起因する火災対策で最も本質的なものは、防災まちづくりであり、その代表が木造住宅密集地域の解消です。これについては、昨日の我が自民党代表質問で触れておりますので、私はこれに言及しません。しかし、防災まちづくりには長い時間を必要とします。切迫する首都直下地震から命を守るには、今すぐできる身近な対策が不可欠であり、それは初期消火と避難であります。
 まず、初期消火についてです。平時であれば、一一九番に電話をすれば、消防隊がすぐ駆けつけてくれます。しかしながら、首都直下地震は、同時多発の火災であり、かつ道路が寸断されていることが予想されるため、消防隊の応援は期待できず、初期消火には、消防団と地域住民が当たらなければなりません。町会や自治会には、D級ポンプと呼ばれる小型消防ポンプが配置されており、地域の皆さんがその訓練に当たっています。しかし、どれだけ熱心にD級ポンプの訓練を行っても、火災現場の近くに水がなければ火は消せません。にもかかわらず、水をどこから持ってくるか、すなわち水利に対する意識を持つ人は極めてまれであります。
 一方で、市民が初期消火に使うために開発されたスタンドパイプは、その弱点を補う画期的なものです。すなわち、消防隊が使う消火栓にごく簡単な操作で取りつけるだけで、三階建ての高さの火災にも対応できます。水道管自体に圧がかかっているため、ポンプを使用しなくても水が三階まで届くのです。取りつけは、か弱い女性でも二人いれば十分可能です。
 都内には、おおむね百メートル四方に一つ消火栓が設置されています。その数は、都内全体で十三万、これに加えて、木造住宅密集地域に多く設置されている排水栓が二千、水道管の断水率を減らし、この水利を活用した初期消火ができるかどうかが、首都直下地震から命を守れるかどうかの生命線だと私は考えます。
 だれかが守ってくれるのを待つのではなく、都民一人一人がみずからと家族と地域を守る気概を持たなければなりません。スタンドパイプの設置状況は、我が杉並区でいえば、すべての小中学校に、ようやく一つずつ配置したばかりです。一日も早い整備を望みます。

   〔知事石原慎太郎君登壇〕
◯知事(石原慎太郎君)

 早坂義弘議員の一般質問にお答えいたします。
 火災に重点を置いた首都直下地震対策についてでありますが、東京は、大空襲と大震災によって、過去百年の間に二度も焦土と化し、十五万人を超えるとうとい命が奪われたという歴史を持っております。江戸時代も含めれば、明暦、明和、文化の三大大火の発生した事実がありまして、一つの都市が、これほど頻繁に火に焼かれたという史実は世界にも類例がないと思います。この理由は、やはり、日本のまち、江戸のまちそのものが、資材の関係もあって、ほとんど木造でできているということになると思います。
 例の有名な振りそでの火事でも、それが飛んで江戸城の本丸が焼け落ちたという事例もありますし、当時の江戸で活躍した火消しの連中も、これは消火が決してメーンの仕事ではなくて、むしろ今日東京も努力しておる、類焼を防ぐために、まだ焼けていない家をとにかく引き倒して平地にするという、そういう方法をとっていたようでありますが、今もなお、とにかく戦前から残された古い木造のまちがありまして、戦後の無秩序な開発がもたらした木造住宅密集地域という大きな弱点を抱えているわけであります。
 我々は、こうした過去の苦難の歴史を忘れることなく、東京の脆弱性の克服に向けて、火に対する危機意識を都民と共有して、大震災による火災への備えを固めていかなければならないと思います。
 よく、木密地帯に視察に行きまして、まちの方と話しますと、あなたね、これ危ないよというと、いや、うちは大丈夫だと、なぜか何の根拠もなしに答える人が多いんですが、倒壊はしなくても、結局類焼するおそれがあるわけでありまして、こういった認識を私たちはきちっと持ち直す必要があると思います。
 そのため、延焼遮断帯となる道路の整備などハードの対策はもとより、阪神・淡路大震災における火災の事実も伝えて、住民の危機意識を喚起するとともに、水道の排水栓を活用して、住民による初期消火の体制を整えるなど、ソフト対策も推進していきたいと思っております。
 火災のリスクを見据えた手だてを着実に講じて、東京を、壊れない、燃え広がらないまちへと生まれ変わらせていかなければならないと思っております。
 他の質問については、関係局長から答弁します。